「私、こんなに旦那の事を思って一生懸命やってあげているのに、旦那が冷たい態度をとる。自分はそれだけの存在なんだと思い知り、その夜泣いた。」
という、とある記事を読み、
あ~ 過去の自分と重なる部分があるな~と、過去の苦しかった時期の記憶を思い出しました。
あの時の自分に、今なら言ってあげられる言葉があるなと思い、そのきっかけと考え方を記しておこうと思います。
「こんなにやってあげたのに報われない」
とある記事の内容は、
「結婚して2,3年が経ち、彼の為に仕事も辞めて専業主婦を頑張っているのに、彼が仕事から帰ってくると疲れていてそっけない態度を取る。
彼の為に毎日一生懸命家中を綺麗にし、料理も頑張って品数も5品以上作っている。
なのに、彼は「美味しい」も「ありがとう」も言ってくれない。
彼の為にマッサージもしてあげるし、彼の好きな趣味に付き合ってあげているのに、こんなに彼に対してやってあげているのに・・・彼は同じように私に気持ちを向けてくれない。
自分はそれだけの存在なんだと思い知り、悲しくて、布団の中で泣いた。」
というもの。
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彼女の文章から見えること
わかるわかる、ご飯作りを頑張った時は美味しいとか言って欲しいし、
日々家事で頑張っているからありがとうの言葉は必ず欲しいよね。
なんだか自分ばかりが頑張っている感があるしね。
と、共感出来る部分は多々あるのだけれども、どうしても彼女の言い回しから彼女の思考が透けて見える。
「〇〇してあげてるのに」という言葉。
これ、過去の私が頭の中で使っていた言葉なんですよね。
ボランティア精神の代償とは
私は以前、Non-Profit Organization (非営利団体)で活動していた事があり、文字のごとく、非営利での社会貢献活動や慈善活動を行うわけです。
そこで私は、
こちらは無償で、慈善事業で相手の事をやっているのに、感謝どころか文句を言われてしまう
という経験をしました。
「相手の為にやってあげているのに、どうして感謝されないんだろう・・・」
時同じくして、私が実際にボランティアスタッフを募って活動をしていた時に、
そこで、毎回のように勃発する問題がありました。
それは、「ボランティアでやってあげているのに問題」です。
始めはボランティアで参加したいと来てくれるのですが、「ボランティアでやってあげているのに、そういう言われ方はされたくない」とか、
「大事にされていない」とか「ここまでやるつもりじゃなかった」などとスタッフ同士で揉めたりする事がよくありました。
「こっちはやってあげているのに・・・・」
「あ、これだ。」
私の思考が、傍から見ると客観的に見えた瞬間だたんですよね。
「相手の為にやってあげているのに」そういう思考になると、
独りよがりというのか、こっちの意見を押し付けているというのか、
本当に相手の望んでいる事との対話を怠りがちになるのかなと。
悲しいかな、 別に、相手もそれを求めてなかったりする。(笑)
そして、してあげたと思っていると見返りを求めたくなる。
お金を払って依頼する場合には起こらない事が、ボランティアだと起こるんですよね。
タレントのGACKTがそれを非常に解りやすい例えで表現していました。
「車の運転をしていて、進行方向に割り込んでくる車に、道を譲ってあげたとする。譲った後にありがとうの表現やハザードランプが無かった時に、イラっとくる。これと一緒」だと。
という話をしていました。
こちらから親切のつもりでやってあげたと思っていると、相手が感謝しなかったり、ぶっきらぼうな態度を取っていると、途端にイラっとすると。
だから「自分がやりたいからやった事だと思い直す」と。
「やってあげる」と見返りが欲しくなる
これらに共通している事は、皆、
「親切で相手の為にやってあげた」と思っている場合が多いんですよね。
先に出た、旦那の対応で悲しくなってしまった彼女も、彼にこんなに親切心でやってあげたのに、、、(何も返してくれない)」
という()になって心の内にある部分、つまり、「見返り」が欲しくなっちゃうんですよね。
人間ですもの、これは当たり前。
ボランティアをしたから、「凄い」と、「ありがとう」と言ってもらいたい。
車に道を譲ったから、ありがとうと言われたい。
親切で電車の席を譲ったから、感謝されたい。
人間ですもの、見返りが欲しくなるのは当たり前。
ただ、見返りを求め過ぎると自分が苦しくなるんですよね。
過去の私がそうだったように、
相手が自分の期待に応えてくれないと、自信喪失したり、イラっとしたり、「自分が大事にされていない」と悲しくなったりしちゃう事もある。
見返りを求めなくなる為の考え方とは?
このポイントは、相手に「やってあげた」のか、それとも相手に「私がやりたかった」のか。
この違い。これだけの違いなんです。
先に出た彼女の例で言うと、
彼が喜ぶかどうかはわからないけど、私が彼に喜んで欲しいから、私がやる。
ボランティアも相手の為にやってあげるのではなく、自分がやりたいからやる。
そうやって主語を、自分に置き換えるだけなんですよね。
それだけの違いですが、自分で決めた事で自分の意思でやるとなると、相手の反応が気にならなくなってくるんですよね。
そしてなんなら、相手との対話をする謙虚さが生まれてきたりします。
だってこっちは、やりたくてやっているのだから、相手は実際どうなのよって。
そして、そこで「やっぱりそこまで頑張れないな」と思う事は、そもそも無理して相手に合わせていたりする。
相手の反応が気にならなくなってくるというよりは、「しょうがない。私がやりたかっただけだ。」と心の折り合いをつけられる。という表現が良いのかな。
でもこの思考を手に入れるだけで、随分と心がシンプルになります。
相手の反応から解放される魔法の思考法だと私は思っています。
とはいえ、これが、と~~っても難しいんです。
やっぱり笑顔でドアを押さえて先に人を通してあげたのに、(自分がやろうと思ってやったのに)、そのままありがとうも無く、無視されるとイラっときちゃうんです(笑)
そんな時は、「自分がやりたかったからやっただけだ」と自分を慰めます(笑)
自分がやりたい事をやる。それ以上でもそれ以下でもない。
そう考えると、人の為に何かをする事の大変さが改めて身に沁みます。
これで偽善者だ!!なんて言われてしまう有名人はどういう気持ちなんだろう。
いやいや、本当、人の為に行動出来る人々はなんて偉大で尊いのだろう。
私はまだまだ、無償の愛で相手の為に何かをするという事がなかなか出来ない。
人に為に何かをする場合は、自分がやりたいからやる。
相手の反応がどうであれ、自分の為に自分がやりたい行動をし、
それが巡り巡って誰かの為になれば良いのかな・・なんて思ったり。
これは一生修行だな♪